牧師のご挨拶

世界には無数の教会がありますが、同じ教会はありません。それぞれの歴史を紡いでいます。イエス・キリストは唯一の教会を宇宙に創造しました。たとえるならば人間の体におきかえらます。そこには同じ機能のものはありません。しかし見事に各部分が調和しています。

私たちの教会もキリストの体の一部分として1948年11月3日に誕生しました。創立者紺本薫(1914~2004)は農家の長男で生まれ、青年の時人生の意義を見出せず悩んで、近くの薬局のキリスト教家庭集会に初めて参加して「これは一個人にかかわる問題でなく世界に伝えるべきものである。」と直感しました。自宅の部屋を自分で改造して村の子どもを集めて聖書を教え、夜は街頭に立ち伝道をしました。世界伝道の志は親に勘当されても失せることなく、神戸の塩屋聖書神学校に入学しました。普通の学生より長い6年間学びました。

それは2年間の軍隊生活の為です。当時をしる今もご健在な戦友は「紺本さんは休憩で雑談していても一人正座をして目をとじていました。何万の軍隊のなかで特別の人だった。人間でなく神の人でした。滅法剣道が強く誰にも負けなかった。」と証言しておられます。敗戦後導きにより神戸の刈藻島のカナン教会の開拓に携わり、その後高取山麓の早瀬宅にお世話になり、数名の信者の家庭で集会を行う。

そして戦争で焦土と化して売り地である当地を十万で購入しました。天幕を立て宣教を開始しました。その日が足立妙子との結婚式でもありました。当時は精神に飢え乾いた青年が教会に集まり、教会に仕えました。東洋聖書神学院を開校、巣立った若者が独立独歩で四国、名古屋、大阪、寝屋川、加西、姫路、岡山、等々教会が生まれ、聖成基督教団が作られました。1995年の阪神淡路大震災を通し、教団は分裂しましたが、今は以前のように和解をして一つとなっています。

神様は宇宙的教会の部分として私たちの教会を建設してくださいました。特に紺本薫という神の人を選んでくださったのです。それゆえ私たちの教会には世界宣教の使命があります。

長田神社の境内にある教会です。これを何とかして教会が長田のシンボルとなるようにと願っています。具体的には初詣に何十万にと参拝にこられる方々が、毎週日曜礼拝に参加されることが私たちの教会の使命です。

「セブンティ」から「セブンティーン」
私は自分の年齢をいう時「セブンティ」と言います。「セブンティーン」なら素敵ですが、「ーン」があるか、ないかで雲泥の差です。「ーン」がなくなることは若さがなくなることです。いやそれ以上に死が現実味を帯びてきていると言うことです。しかし、99%の人々は自分は死なないと思っています。いやタブーにしているのです。変えれる事は積極的に変革しなければならいけど、「セブンティ」は「セブンティーン」にどう転んでも変えれません。変れない事はマイナスでなくプラスと考えるのです。死が現実味を帯びると言うことは、地位や財産や名誉や欲は不必要になるのです。いかに、人間は執着心、プライド、欲望により、人を傷つけ、自分も傷つけたことでしょう。それらを整理し、処分することです。さらにもう一つ大切なことは神による罪の赦しを受け、喜んで咎めなききよい心で神の前に立つ備えが必要です。「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊(キリスト)との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」(聖書)。永遠の神様の備えてくださる御国に住む為に、小羊なるイエス・キリストの十字架による罪の赦しの身代わりの死を信じて罪を悔い改める時に、いまからすでに、永遠の生命が注ぎ込まれるのです。

不老・不死の国
小さい頃、クリスマスプレゼントのガリヴァ旅行記を貪り読んだことがあります。不死の国で不老でなくて生き続ける老婆が描かれていました。70年前の本の中が現実味を帯びています。おこがましい言い方ですが、医学は不死を追求して不老を等閑にしています。その証拠に、ちょうど、植物に水をやるように、24時間ベッドに身動きも出来ず、生存可能限度のブドウ糖点滴の管につながれ、只管天井を仰いでいる人々が増え続けています。どのような介護付き有料老人ホームに入るかと言うよりも、最優先課題は自分がそのようになるとき、過去に犯した罪にもだえ苦しむのではないかと思います。なぜなら人間には良心があって、良いことをしたら安心し、悪い事をしたら罪に苛まれるように作られているのです。そこから、逃れられることは不可能です。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(聖書)。イエス様の十字架の罪の身代わりの死は、犯した罪の赦しの平安を与え、唯一の慰めとなることでしょう。

良いサマリヤ人となる
争いはどこから起こるのでしょうか。自分が正しくて、相手は間違っているというところから始まるのです。正しい人とは一般的に人から認められるだけでなく、心を知っておられる神様から認められる人です。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。」また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」との聖書の言葉を実行できる人でなければなりません。しかし、現状はどうでしょうか。誰一人正しい人はいません。地球は宇宙全体に較べるなら、海辺の砂の一粒のような存在です。有史以来、いつも争いが絶えません。そして、核戦争で滅んでも不思議ではないぐらい現実味を帯びてきているのです。
昔、イスラエルは隣のサマリヤと喧嘩ばかりしていました。ルーツは同じ人種で外見は見分けがつかないのに、仕草や言葉や習慣や宗教の違いを、互いに軽蔑したり、罵り合ったりしました。おまけにかつてイスラエルが滅ぼされた時、サマリヤは他民族との融合政策をとったため、イスラエルはサマリヤに対して国賊、非国民と見下げた態度をとったのです。イエス様は良いサマリヤ人の話で、たとえ、過去に苛められたり、辱めを受けたとしても、相手が困っている時は過去はどうであれ、親身になって、犠牲を払い、骨身を惜しまない愛こそ仲良くなる秘訣であることを身をもって教えてくださいました。それが十字架の犠牲の愛です。人類が仲良くなるのはイエス様のように自分を犠牲にして人を助ける。これ以外に敵も味方も血を流さず、戦いをなくす方法はありません。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれももってはいません。」(キリスト)

神聖な国会
最近国会で野党がプラカードを掲げたということで、与党が「神聖な国会でプラカードを掲げることは子どもに悪影響を及ぼす。」と非難しました。神聖ローマ帝国はローマ帝国のフリードリヒ1世が皇帝の地位は教皇よりも上位にあり、神から与えられた地位であると言う意味で神聖帝国の国号を使いました。(世界史の窓より引用)。
国会が神聖とはなにが、神様から与えられた地位であるのでしょうか。田中正造は足利鉱山の鉱毒被害救済を国会で訴えましたが、却下されたために、議員辞職し、明治天皇に直訴して失敗をしたが、その後、政府は動き出しました。また、韓国人安利淑は戦前第74回帝国議会に宗教団体法案が上程されたことを阻止しようと、議場時に警告文を撒いて、逮捕されました。神聖な国会で非常識なことはしてはいけませんが、された方々はこれでは村や国が滅んでしまうという切迫感が自分を省みずにさせた行為ではないでしょうか。いままで、国会でプラカードを掲げたことはない。というのであれば、それほどしなければ、日本が取り返しのつかない間違いを犯してしまうという、方々の意見があるということを指導者は耳を傾けてほしいと願います。

沈黙考
第一 同じ立場なら、イエスも踏み絵を踏んで転ぶだろう。
イエスは荒れ野の誘惑において、悪魔に、私を拝むなら世界のすべてを与えると言われた時、「引き下がれサタン」 と誘惑を拒否した。
第二 日本の神(キリスト)とイスパニアの神(キリスト)とは違う。
場所、民族、時間は異なって当然。異ならないのは父なる神が処女マリヤの胎内に聖霊により御子イエスを 宿し、十字架につけられ、人間の罪の赦し、体のよみがえり、永遠の生命は万国共通である。
第三 この地は沼地で根も腐らせる
日本が沼地というより、人間の心が沼地のようである。「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。」
(イザヤ35:1)。、イエス様は十字架の上で血をながして、沼地のような罪深い心をきよめてくださいました。

いつも喜ぶ
聖書に喜ぶということばが、605語と、言葉の中で一番多く使われています。感情は、外部からの影響が左右 されます。前触れなしで感情がわきあがることもあるので、お葬式や電車の中で、にやにやしだしたらどうしょうと 取り越し苦労することもしばしばあります。どうも、感情はストレスの発散の働きをする見たいです。余計な話ですが、女性は「悲しくなくても涙を流せる。」という芸当ができるらしいです。そんな女性を見て男は「可愛い」とか純粋だとかと 思って夢中になるるのかわかりません。仮面のような無感情も味気ないし、いつもどなりちらしていらいらしている のも健康にも悪い。感情は制御できないかもしれないけど、勤めて、喜ぶ、感謝する、ということは感情を修復するための良い方法であります。そのために、聖書に一番多く喜ぶと言う言葉が使われています。トランプが怒り、 安倍さんが腹が立つ。とばっちりを受けるのは庶民です。そのような戦々恐々としている世の中は来てほしくありません。喜べないときに、強いて喜ぶことは難しい。しかし、聖書に一番多く書かれていることは、どうも、喜ぶときに 体を活性される善玉の成分を発散させて下さっているのではと思っています。親の言葉となすびの花は千に一つもあだ花はなしということわざもあるではないですか。聖書の言葉も喜べと神さまが一番多くいっておられるということは、なにか大切なことがあるのです。

45年前の住職の親切
今から45年前女性関係に悩んで奈良桜井市にある翠昌寺に飛び込みました。何の縁も縁もない私に同年輩の住職が親身に悩みを聞いてくださり、交通事故死した檀家の息子の葬儀の直前にもかかわらず、ぎりぎりまで応対してくださいました。また定期座禅会、滝修行、食事の最後は茶碗をきれいに拭いた沢庵を食べ、白湯を注いで飲んで、洗い物はなしの精進料理をいただきました。住職は結婚されていたのに、早朝のお勤めをこなし、外出したら、会う人にだれかれなしに必ず挨拶をしておられました。ガラスばりの僧侶の多忙さを見せられました。振り返って45年たって私は思ってもいなかった不思議な導きで僧侶ではなく、牧師となりましたがお恥ずかしい限りで住職の爪の垢をせんじて飲まないといけない人間です。一体、昔のように私をカウンセリングしてくださったような方がおられるでしょうか。45年前以上にどの宗教も現状維持に困難さを覚えておられます。宗教家自ら「私の悩みを聞いてくれ。」というのが本音ではないでしょうか。そのようばせちがらい世に、キリストは王の王として力で私を悪魔から保護し、神と私たちんの仲介者として、弱いおろかな私たちを神のもとに導き携えのぼり、心も体に傷つく私たちを全く癒してくださるです。

もし、日本とドイツがアメリカと連合軍に勝っていたら
もし、日本とドイツがアメリカと連合軍に勝っていたら、アメリカは日本とドイツに分割され、アジアは日本の支配下に置かれていたでしょう。また、中東はヨーロッパを十字軍のトラウマの影響で敵対視しているのに、トルコなどは日本と縁もゆかりもないにもかかわらず、なぜか好意的なのです。そうなると、どうなるか。日本は世界の真ん中で輝く。ということで、どこの家庭でも、企業でも、公共施設のみならず、宗教施設にも神棚を祭り、天皇こそ人類の守り神としてされているでしょう。それを守らない、キリスト教会、個人を非国民として処罰していたと思います。当時、すでに植民地化されていた韓国、台湾、東南アジアのクリスチャンは、国を搾取されおまけに信教の自由も奪われ、憎しみが乗数的に膨れ上がったのです。
現代の日本は70年前の東南アジアを支配していたころと同じような雰囲気になりつつあります。皇室のことはタブー視され宗教のことは伝染病のごとく忌み嫌われています。そのようなとき、まがりなりにも信仰をしても、逮捕されず、教会に神棚を祭らなくても許される、恵みを喜ばなければなりません。そして、今こそ、人間同士が和解をすることが大切です。
私たちがしなければ、いつ、だれがするのでしょう。永遠にチャンスは失われます。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(聖書)

節分
今日2月3日は節分です。季節を分ける意味です。冬から春の分かれ目です。なぜ、鬼追いや、お寿司のまるかぶりをするのか、さまざまな意味があるようですが、ようするに、災いを避けて幸運が与えられるようにとの願いからするのです。不幸や災いがなく、平穏な生活をくることを願います。そのために、果たして、寿司を食べ、豆まきをするだけで、大丈夫でしょうか。特に昨今の情勢をみると、容易ならざる状態です。
また災難に遭遇された方々が、なにか、豆まきをせず寿司のまるかじりをしないからだと言う思いがこころによぎるような、いつなにが起きるか分からないと戦々恐々としタ世界です。
イエス様のもとに、当時シロアムの塔が突然倒れて18人の方々が犠牲になった事件がありました。
人々はかれらは信心が足りなかったか、もしくは、罪深かったのかと質問しました。イエス様は「悔い改めなければ同じようになる。」と警告しました。この世は脆い場所に建てられています。いわば砂の上に建てられた家のようです。突然の嵐や地震にひとかたもなく、崩れ去ります。諸行無常の響きありというものです。
イエス様は悔い改めなさいと言われました。悔い改めは回れ右ということです。いままでの世界と人生観と発想を変えることです。
どのようにして、かえることができるでしょう。有史以来ほとんどの人々が歩んだのは大きな門から入り、広い道です。
豊かさ楽しい道であっても、最後は滅びの道でした。イエス様は悔い改めなさいとは小さい門より入るということです。それは信仰という門です。イエス・キリストの十字架は私の罪の身代わりであるという神の救いの門には入ることです。自己の罪をい悔い改め
自分のプライドや功績を脱ぎ捨て裸になることです。そうするなら、イエス様は十字架の上から罪の赦しを宣言して命にいたる道は細くそこを通る人は少ない。しかし、滅びの道ではない。人間好みしないけど、着実なきよい、神に喜ばれる命の道を指し示してくださいます。

慰安婦
「人が新妻をめとったときは、その者をいくさにだしてはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。
彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。」(申命記24:5)
いまから3500年前の聖書の言葉です。いかに、若い夫婦に対しての暖かい配慮でしょう。すなわち、戦はなるだけ避けなければならないということです。やむなく戦いをするにしても、このようなことを配慮をしなければならないのです。日本は無謀にもそんなことをお構いなくして、兵士の性の処理を現地の女性を使って済ませようとしたため、 被害を受けた韓国は世界のいたるところに慰安婦像を建てて、過去の日本の罪に対して抗議しているのです。

日本の品格
「その日には、彼らはもう、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く』とは言わない。人はそれぞれ自分の咎のために死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べるものは歯が浮くのだ。」(旧約聖書)。
最近大阪で、橋下元知事が北朝鮮の学校に対して,北朝鮮を暴力団の親分にたとえてその子どもに補助をするのはおかしいという訴えの判決が勝訴しましたが、おかしいです。イエス様の弟子が視覚障害者を見て、「先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」。イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(新約聖書)。だのに、なぜ、北朝鮮の子どもに生まれたということで差別するのですか。イエス様のように、どんな生まれであろうとも、それが不幸ととらず、そのことを通して、神様の素晴らしさを表すようになるなら、障害であろうと、どんな国に生まれようと子どもに責任はありません。それにもかかわらず、暴力団のような国の子どもに補助はしないというのは理不尽なことです。
日本では暴力団の子どもをだからと言って差別しますか。在日の方々がどのような理由で日本に来られたかという理由も考えないで、そんな無茶苦茶なことをしていたら、日本の品格が疑われます。

聖書の中心は神です
聖書の中心は神です。このお方が全てを創造されたと記されています。
これがうそだと、聖書を信じることは空しい夢を追い求めているような愚かなことです。
しかし、これが真実なら大変なことです。なぜなら、このお方を信じなければ、人間は永遠に存在する拠り所がなくなるのです。
私たちが今まで信じていたのはある時は現人神として日本のみならず、植民地においても強制的に宮城礼拝をさせられた神様でした。そして、敗戦したらすぐさま、現人神は人間宣言をされたのです。
これが、日本人の神観念です。しかし聖書の神は「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、 全きものであれ。」(創世記一七ノ一)ヘブル語でエル・シャダイと言い、人間に食べ物や力やさまざまの生きるために必要なものを供給してくださるお方なのです。だから、このお方は、永遠にご自分が食べなくとも、病気になることも、死ぬこともない神様なのです。人間は一瞬たりとも全知全能の神様の守りなくしてこの世においても、死んださきにおいても喜んで存在できないのです。
そして全能の神様は人間に対して全きものとなりなさいと言われています。全きとは完全というよりも 神様との関係における健全さを示しています。神様は義なるお方です。人間の義は人との比較です。
本来義とは神様との関係における健全さ、義でなけばならないのです。しかし、聖書には「義人はいない。
ひとりもいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ人への手紙三ノ一〇~一二)。と人間を断罪しているのです。義なる神と不義なる人間の敵対関係を是正するために、 神の御子が人の子としてお生まれになりました。それが二千年前歴史上イスラエルのベツレヘムお生まれになられたイエス・キリストです。
彼は不義なる人間の罪を取り除くために自ら十字架の上に犠牲としてささげられ、その神様の義なる御業により 人間が義とされ神様と全き関係に回復されたのです。義なる神様の前に義とされた人間は神の裁きから免除され、罪の虜から解放されるとともに永遠の生命を今から与えられるのです。そして、義なる神様と義とされた私たちは神様の愛と祝福の中に復活の体を与えられ神様とともに生き続けることができるのです。

勝っても負けても八連隊
今から70年前の大阪連隊につけられた揶揄です。
すなわち、日本で一番弱い連隊だったのです。昔は商業の都であり、農業や漁業や炭鉱や林業の労働が少なかったからだと思います。その影響かどうか知れませんが、ギャンブルを合法化して、大阪を日本のラスベガスにしようと知事が陣頭指揮をしています。「勝っても負けても八連隊」ではないですが、本人も身内も一生翻弄されるのではないかと、危惧します。
「急に得た財産は減るが、働いて集める者は、それを増やす。」
(旧約聖書箴言13:11)

監視カメラ
今から30年前西成に監視カメラを設置することで大問題になりました。
最近、教会に警察署の方が来られて、隣の駐車場で事件があったので監視カメラを見させてくださいと言われたので、「これはダミーです。」と言って帰ってもらいました。今は、テロ法を作り国に対して不穏な計画をすると捕まるのです。
だんだんと心の中にまで、監視カメラを取り付けように思えます。
それなら、一層のこと権力者でなく、創造主に恥ずかしくない心に変えられるなら、監視カメラを取り付けるような必要はありません。
「隠されているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」(ルカ福音書8:17)
心の秘密を主イエス様に打ち明けるなら、主はあなたをあわれみ、十字架の上より血を流され、あなたの罪を赦し、その悪をきよめてくださるのです。

一小学校の危機
宗教教育を重視するために新設された小学校が存続の危機に陥っています。小学校建設のために10、9億の評価額の国有地が1億近くに格安に払い下げら、野党はその不自然さに疑問を抱き政治家が関与していると追求して、与党の政治家は「小学校の理事長が陳情にきたが、差し出した金を突き返した。」と記者会見で語っていました。
教育方針は明治天皇を敬い、教育勅語を全員で朗唱します。
当初は現総理大臣の名前をそのままつけて校名にする予定でした。辞退されましたが、名誉校長は現総理大臣の夫人になっておられました。しかしそれも今は辞退されました。
この問題が発覚しなかったなら、四月の入学式には校長先生は「皆さんは〇〇小学校の第一回目の入学生です。これから百年後も、皆さんはこの小学校の第一回目の入学生です。〇〇総理大臣の夫人が名誉校長であり、〇〇総理大臣の名前の学校であり、明治天皇が御つくりになられた教育勅語を朗唱する他の小学校にない特別な学校です。
この小学校は日本を代表する学校ですからそれに恥ずかしくないようにしましょう。」と言うはずだったでしょう。
それが、毎日のように隠されていた不正があぶりだされて、多くの人々から羨望の的であった小学校が、批難の的とされているのです。最大の被害者は新一年生40名とその御家族です。
「正義によって得たわずかなものは、不正によって得た多くの収穫にまさる。」(箴言16:8)
真実は神様がご存知ですが、他人事として思わず、わが身に起こったこととして、子どもさんとご家族が 幸せになられることを祈るものです。

世界の笑いもの
日本の与党の長老が「北朝鮮からミサイル4発を発射されて、だまっていたなら世界から笑いものにされる」と発言されました。
はたして、だまっていたら、日本が笑いものにされるのでしょうか。
笑いものにされるのは、北朝鮮ではないのでしょうか。
「かりに、あなたに対して、一日に七度罪を犯しても、「悔い改めます。」と言って七度あなたの所に来るなら、赦してやりなさい。」(キリスト)
主イエス様は七度も罪を犯すものに、切り捨てず、七度の悔い改め、すなわち、完全な悔い改めを求めます。腹は立つけど、報復を最優先でなく、ミサイルの通過地域の住民の安全を最優先課題にしていただきいと思います。

戦後レジュームから脱却
「また、あなたは律法によって教育されているので、神のみこころを知り(理解し)、識別力をもってより良いものを認める(真に重要なものについての感覚を持つ)ならば、また、もしあなたが、自分は(みずから)盲人の手引きであり、暗やみの中にいる者の光であり、また(自分たちは)律法の中に知識と真理との具現を持っているいるため、(みずから)愚かな者の矯正者であり、幼稚な者の教師である、と確信しているならば、それではいったいどうして、他の人を教える者が自分自身を教えないのですか。盗むなと教えていながら、自分自身が盗む(ほんとうは自分のものでない物を取る)のですか。姦淫するなと言うあなたがたが、自分は姦淫する(行為において、また思いにおいて純潔に欠く)のですか。偶像をきらう(憎む)あなたが、自分の宮の物を盗む(神の用に聖別されている物を枝葉に供して、その事によって神殿泥棒をなし、聖物窃盗をする)のですか。
律法を誇りとするあなたが、自分を律法を破って(こっそりと犯し、あるいは無とんちゃくをもって軽んじ、あるいはおおっぴらに破壊して)神の名誉をけがすのですか。」(詳訳聖書ローマ人への手紙2:19~23)
難しいことを書いてすみません。簡単に申しますとユダヤ人にとっては律法すなわち聖書は神の言葉で、これを守るだけでなく、国民に身を持って教導す責任を委ねられているのに、反対に罪を犯し神の名誉を汚しているのです。
現政権は戦後レジュームから脱却して進駐軍押し付憲法から自主憲法を制定することを政権の旗印としています。同じ現政権は明治天皇の教育勅語は家族愛、隣人愛を奨励して立派なもので、非難されるのはおかしいと擁護しています。前者は悪く、後者は良いと主張しているのです。ようするに日本国憲法や教育勅語は政権によって悪くも良くもなるのです。はたして憲法や教育勅語は時の権力者により変えられるようなものでしょうか。
そうではなく、憲法や教育勅語をどれだけの方々が真剣に取り組んで命をかけて、実践しているかが問われます。私を含めて、政治家も宗教家も愚かな者の矯正者であり、幼稚な者の教師である、と確信しているなら自ら、クリスチャンであるというなら、聖書の前にひれ伏し神様の前にやましくないガラス張りの生活をしなければならないのです。
今社会で問題になっていることを見るに付け、どうも、自分の私服を肥やすために憲法や教育勅語を利用しているように思えてなりません。

敬宮愛子様の卒業文集を読んで

愛子様は昨年六月に広島に修学旅行して原爆ドームを見るまで、生活に不満足を感じておられたが、それ以来人生観が変わられました。当たり前である平和の暮らしが、当たり前でないことがです。 そして、唯一の被爆国に生まれた日本人は、自分で体験したことを世界に発信しく必要がある。
平和は、人まかせでなく、自らの思いや行動で築きあげること。
核兵器が廃絶される日まで燃やし続けられる平和の灯が一日も早く消えることを願い平和の灯の向こうに原爆ドームが見えるということは、核兵器が廃絶される時平和の灯は愛の灯にかえられるのです。
平和が揺らぐ時、また広島を訪れたいと、人間の罪がむごたらしく現れた場所が平和の原点に戻ること。
愛子様は皇族の立場でなく、一少女として書かておられます。中3の若者が世界の平和を、人まかせにしてはいけないと主張されておられることは、ご両親がどれだけ、愛子様の人格教育を重要視されてお育てになられているというこを知ることが出来ました。

2017年3月23日 
聖成基督教団
イエス・キリスト聖成伝道教会
牧師 山本 稔

©イエス・キリスト聖成伝道教会

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