イエス・キリスト聖成伝道教会のご案内


沿革

1948(昭和23)年11月3日創立二年後に60年を迎える町の中の群れです。空襲により焦土化した神戸の地に立った創立者故紺本薫によって救われた十名足らずの信者の家を使用して集会をしていていました。その後主イエス様の御言葉と導きにより当地を購入し、新開地にあった米軍キャンプよりの払い下げのテントを建てて伝道を開始しました。信仰にはいるものが起り、直接伝道者を目指すものもあり、訓練と聖書の学びの為、東洋聖書神学院を設立しました。若き有能な人材は純粋に聖書と神の聖霊によって導かれ、5年以上の厳しい実践的訓練に耐えた若者が各地に遣わされ、無の中より教会を建て、聖成基督教団を形成しました。現在西は四国より東は名古屋まで6つの教会があります。日本各県に1つの教会を建設されるよう、各家庭に一名以上の宣教師が起こされるよう、各国に一名以上の宣教師が起こされるようにと日夜祈っています。

教義と特色

主イエス様より継続されてきた正統的、伝統的、穏健的、純粋的信仰で、旧約、新約聖書66巻を神の言葉と信じ、信仰と行為の唯一の基準とする。世界宣教は主イエス様の至上命令でありますが、単なる伝道、宣教に終わらず、聖霊によって心が主イエス様のごとくきよく変えられた者が、伝道者、牧師として任命され、各地に教会を建設し、其の教会を通して世界宣教を行います。なお、教会の維持、運営は他の団体に依存せず、企業運営の方法を用いず、聖書にある教会建設のごとく、祈りと信仰と愛と聖霊の能力によっておこないます。

創立者 紺本 薫

紺本薫は1914(大正3)年9月19日父紺本清太郎、母おくらの7人兄弟長男に生まれる。鳥取県彦名村(現米子市)の農家であった。少年時代は山登り、船こぎ、スキー、山野を走り回る腕白坊主であった。しかし、青年時代、墓の間にある畑で仕事をして一人物思いにふけるとき、「私は何の為に生まれたのか。この片田舎で人知れず死んでいくのか。たとえ総理大臣になっても、数年でその権力の座からおりなければならないではないか。その僅かな名誉の為に一生苦しまねばならないではないか。それだけの価値があるのか。如何なる人生が最高か。凡ては空しい。死んだ方がましではないか。」と考えた。

何も手がつかなかった。しかし、神は山陰の片田舎に悩む若者を心に留めておられた。家の近くに中国大陸から帰った夫婦が薬屋を営む傍らキリスト教の家庭集会を開いていた。17歳の若者は鹿の谷川の水を慕い喘ぐごとくキリストの福音を聞いた。そこで生まれて初めて祈った。「神様、この驚くべき喜びの知らせを全世界の人々に伝えさせてください。」と。その時全生涯を神様にささげる決意をした。70年余り経った現在もその使命と決意は不動、不変である。

だれがこのような人生を出発して一生涯変わらず神様に仕えたものがあったか。70年の信仰生涯に一回の動揺もない。神様の選びは神様の側に変わらないだけでなく、人間の側の内的信仰にも変りがない。驚くべき神様のご計画である。最も価値のない田舎の若者を神様は選ばれたのである。

17歳の青年は、毎日激しい農作業を終えると、毎晩2回続けてただ1人で路傍伝道をした。家の周辺3キロは伝道しないところはなかった。島根県安来町に招かれて家庭集会を開き、中海にある大根島の青年会館に集まった5,60名の人が学生服の17歳の青年の話に耳を傾けた。家では二部屋を用いて集会をした。毎朝早朝祈祷会もした。町から牧師が来られるのは月1回程度である。それ以外の集会は私が行う。仕事、食事の合間に、トイレのなかでも聖書を読んだ。、約4キロある米子市の教会の往き帰りに歩きながらもむさぼるように聖書を読んだ。

※聖霊による聖化    
主イエス様による罪の救いの体験は明確であった。しかし、心の戦いに苦しむ1933年11月3日家庭集会の開かれていた薬屋の2階で※聖霊による聖化を体験した。                   
※聖霊による聖化とはキリスト信仰の体験のひとつで第2の恵とも言われる。主イエス様に十字架による罪の身代わりの死を受け入れて自己の内的罪を解決されても、性質の罪、潜在的遺伝的な罪は心に残る。それを深刻に悩み、救いを求めるものに聖霊により、心の奥底まで徹底的にきよめてくださる。第1回目の体験が聖霊のバプテスマと言い、第2回目以降は聖霊の満たしと言う。

1933年12月2日、米子市彦名町粟嶋神社の海岸で福沢友男先生より水のバプテスマを受ける。選びの確信は強くなり、直接献身の機会を待った。いよいよその日が来た。父親は私が気が狂ったのではないかと、心配した。「家に教会を建設して、結婚して夫婦で信仰したらいいではないか。」と引き止めた。しかし、私の意志は固かった。全てを捨てて主イエス様に従った。父親は「子でも親でもない。」と長男の私を勘当した。裸一貫で塩屋の神学校に行った。今の関西聖書神学校である。沢村校長に、「神様が選んでくださいましたから入学させてください。」と大胆な嘆願で入学させていただいた。学費ので代わり裏山を開墾して野菜を作った。

1936年徴兵され、シナ事変で2年間軍隊生活をする。各種の理由により六年余り神学校生活をする。学生でありながら、二つの教会の責任を持たされる。そのような多忙のなかにも無一物裸足伝道をした。一回は米子より南の津山に至る。二回は日本海を東にそって鳥取市の先の浦富まで伝道する。1日7回も路傍伝道をする。畑仕事をしている人に聞こえるように大声で1時間以上語る。ついに声がかすれてしまう。しかし、声が回復して以来、今日まで一日に多いときで三回の説教を四日間続けたが声はかすれなかった。戦争の激しき時期に鳥取市の教会で※大殿兄に始めて会う。※大殿兄は紺本をたよって神戸に出てこられ教会開拓当初、紺本の良き同労者として貢献された。その後、鳥取市岩井町の大殿家に訪問し、夕刻であったが、二人で伝道する。

九州の日向海岸の防衛の時、終戦を迎える。上京して中央のキリスト教界の指導者と交わる。鎌倉に住まいを与えられ、風呂場を祈祷室に改造して「私に五人の献身者を与えてください。」と祈る。

神様の導きにより、神戸にきて、長田区の浜にあるかるも島の教会の建設をする。その後須磨区の高取山のふもと神撫町にある早瀬家にお世話になる。板宿と兵庫区西出町の信者の家で集会を行う。

1947年の元旦三菱広畔寮(現神戸法科大学院)で聖会を開く。集会所の窓から長田の町をながめ、あの辺に教会を建て、朝夕鐘を鳴らしたいと、祈る。その後、早瀬兄と数回この地を視察する。あるとき、空襲のために焼け野が原となり、瓦礫の山のこの地に売り地という看板が立っているではないか。約377平米の土地は10万円である。現在は約8600万円と860倍の価値がある。しかし、信者は少なく、貧しい。ある人は2足の靴を1足売り、ある人は2枚の着物や服を1枚売って献金をする。特に牧師夫人の母親の森あやゑの助けは大きいものであった。愛する方々の血と涙により土地を購入したのである。1948年11月3日天幕を建てて伝道開始した。その日は紺本薫と足立妙子との結婚式の日であった。毎年この日を私たちの教団の創立記念日としている。

1953年2月10日に宗教法人化になった。路傍伝道は長田の名物となり、娯楽の少ない時で、黒山の人だかりであった。1957年の7月には新長田駅前、1958年8月には兵庫駅前で一ヶ月間連続の天幕伝道を開く。救われる人が続々と起こされ、献身して牧師となるために学ぶ若者も与えられ、その中より最初に献身して四国の川之江に遣わされたのは現総理の西田照雄である。続いて天幕より次々に増改築を行い、10年後の1959年10月18日に神戸で木造で一番大きな会堂を完成する。1974年5月に会堂前半分を解体して地下1階、地上4階の鉄筋コンクリートの会堂を建設する。

1995年1月17日阪神大震災のため、後部木造礼拝が倒壊する。長田周辺の信者が多く、家を失いながら、先ず、礼拝堂再建を優先させる。教会員は勿論、他教会よりの支援、全世界の方々の祈りと愛と犠牲により約1億の会堂が1996年10月に再建される。同年8月に紺本夫人は完成直前に召された。その後、紺本は1人で後継者育成、教会運営に孤軍奮闘をされる。しかし2002年10月に敗血症のため入院。精密検査により5年前ごろからリンパ性白血病を発症していたのが判明する。その後入退院を繰り返す。紺本が2年間延命したのは、教会員の祈りと医療関係者の献身的な治療とともに、講壇にたって主イエス様の愛と救いを語らねばならないという、強烈な使命感による。

2004年9月19日の日曜礼拝は90歳の誕生日であった。紺本を車椅子で講壇に運んだ。言葉にもならないが力を振り絞り、手を挙げて信者の為にお祈りをする。その後、プレゼントのバースデーケーキに9本のローソクに火をつけて誕生を祝う。最初で最後のバースデーケーキであった。10月初めに不調を訴え入院した。11月3日の56年目の創立記念日に退院を夢見ながら、10月25日90年の地上の生涯を終え、天国に凱旋される。

偉大な神の僕が地上を去った。残された私たちも紺本の信仰を見習い、純粋な信仰を継続しなければならない。この教会は主イエス様の教会でもあり、このお方を信じている一人一人の教会であり、魂の故郷であり、全員の所有物である。ここで、誰にも束縛されず、祈り、賛美、御言葉に満たされるのである。

〒653-0812 兵庫県神戸市長田区長田町1-2-6
聖成基督教団 イエス・キリスト聖成伝道教会
TEL/FAX:078-691-1419


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